新しい景色
使い古された言葉「“変わらなきゃ”が“変わらなきゃ”」。私が仕事上で知る限り、バブル崩壊の90年代から聞いている言葉だ。ただ、この言葉を公言する人ほど私から見たら、変わってもいないし変ろうとしているようにも見えない。もっと言えば、こういう人々は、“自分はそのままで周囲が変わってくれれば・・・。”と願っているように思う。
これでは、ただ時間が流れ、自分が流されていくだけだと私は思う。また、有言実行がそんなに難しいのなら、“人知れず変わる”道を選べば良いのでは?とも。
このことは、個々人のみならず企業・団体・事業も同じだ。本当に変わりたいと思うなら帰属している企業・団体・事業に身を任せるのではなく“自分が変わる!”という強い意志を持つことが大切だと思う。個々人が変わることで周囲にその変化は伝染するに違いない。良き変化が共鳴し、“だったら、自分も!”と、仲間は増えていくのだろう。点が線となり面へと拡張する。こうなれば、しめたものであり、変化が変化を呼び、当初に想定していたよりも大きな変化がもたらされるのではないだろうか?変化についていけない人は、知らずに自分との距離が出来ていく一方で、今まで話したこともない人とのコミュニケーションが生まれ、その対話から今まで知らなかった新しい情報を入手することにもつながり、最初に“変わる!”と決断した自分が自分の想像していた以上に変化していることもある。
私はもともと、あまり変化を好まないタイプだった。しかし、いろいろなことを知る中で、「これ、おかしくない?」と思うことが増え、自分がおかしいと思うことをそのまま、周囲に言ってしまうことが増えていった。すると周囲は、「それはどういうこと?」となり、「こうした方が良くないですか?」といった小さな疑問から、少しずつ自分も変わり、周囲を変えていると気づく時がある。そんなことを続けていると、ふと後ろを振り返った時に、「何か変わった?」と思うようになる。たいそうなことはしていない、人は慣性の中に生きることが多い、でも、今までの見方を少し変えるだけで疑問を抱くこともあるのではないだろうか?だとしたら、それは変化のチャンスなのかもしれない。
そこで、人には限界があるというが「限界とは何か?」
もちろん、時間や距離的な限界はある。
でも、自分で「限界」だと決めてしまわなければ、「限界」の境界線は無限だ。
自分で「はい、おしまい!」と決断した時が「限界」なのだと思う。
そして現代社会は、自分を取り巻く環境(国内外の経済・社会・生活習慣)が目まぐるしく変化している。先人の知恵に基に、常に変化に対応していかないと時代という波に飲み込まれてしまい、顔無しの人間になってしまう。ゴールは決してないのだ。繊維・ファッション業界でも、嘗ての流行がリバイバルしていることが言われるが、当時をそのまま再現するのではなく、当時のエッセンスを基に現在の空気感を乗せていかないと単なるリユースに見えてしまう。そうならないためにも、変化をキャッチする触手は常に張っておく必要がある。ファッションのサイクルの早さを考えたら、まさに“待ったなし!”の状態だ。
押しなべて、“変化は痛みを伴う”ものだ。しかし、その痛みと共に変化を実感した時に目の前に広がる景色は今までとは一変する。言い換えれば、その痛みを超えなければ見られない景色がある。この景色は爽快であり、自分の背筋が伸び、目線が一段階上がったような不思議な光景だ。一種の脱皮なのかもしれない。自分の意志とは別に、私は幾度かこの景色を見たことがある。(見せられたという方が正解なのかもしれない。)嘗て、故寺山修司氏が出版した“書を捨てよ、町へ出よう”ではないが、己のものにした良き習慣は身に纏ったまま、重苦しく意味なく慣性だけで着てきた衣服を一旦、脱ぎ捨てて身軽になった状態で自分の周囲の景色を見てみることも時には大切なことなのだと思う。
そんなことを考えると、変化を楽しむというのも、これまた人生なのだと思う。
画像提供元:Pexels
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