cky355のブログ

日々、感じること・思うことを徒然に・・・。

言語も国境もないモノ、感じることが全てであるモノ

人が持つ五感(視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)を使って、人はその固有なものを判断する。洋服のメインは視覚であり、音楽のメインは聴覚であることは当たり前のことだが、より進んだ欲求は、洋服の触覚、音楽の視覚を求めるものだと思う。洋服であれば着心地というものであるが音楽を見ることは難しい。楽譜を見ることはできるけれど、その旋律は奏でる人の気持ちでちょっとした変化をもたらすからだ。なので、ファンと言われる人でなくとも、ライブ(コンサート)へ出向き、演奏者やボーカルを目の前で見て、より聴覚を洗練させようとする。
また、ファッションの歴史において、モードと音楽は密接な関係を築いてきた。「ヒッピー」、「パンク」、「グランジ」等、2つの業界で共通の言語として名称を刻んでいる。社会や経済の状況を身近に感じ、何もないトコロから有るモノへ、クリエーターの特有の言語として洋服や音楽を創造するという共通点がある。同じ社会に生きていれば、環境は違えども似たような思考になることはありえることであり、その表現方法が洋服だったり音楽だったりするだけのことだと私は思う。しかし、2つの分野が同時に同じことを考えた時にいわゆる“ブーム”というものが生まれることがある。共感する人が多いことを象徴しているのであろう。
 さらに言うと、「ファッション」「ミュージック」「アート」「スポーツ」に言葉は必要がないと思う。言語も国境もなく、感じることができるものだと私は思っているからだ。


 実際に俺は、中国、インド、フランス、イタリア等・・・多くの海外で展示会やイベント等を展開してきた。学生時代は英検も取得し、プライベートの海外旅行ではよく東南アジアを訪問してきたが、その際には何の不自由もなく英語で現地を快適に過ごしてきた。しかし、長く海外渡航の間隔が空き、業務での海外出張が頻繁になると日常会話ではないビジネスでの会話となり、初期の頃はだいぶ尻込みをしてきた。中途半端な英語を話すくらいなら通訳を通しての方が正確だと一時期思っていた。
しか~し、ある時「この通訳の方は、俺が言ったことを全て訳していない?!」ということに気づいた。それと同時に仕事相手の現地の人も「この人、こんな短い話だった?」みたいな顔をしていることに気づいた。そこで、俺は俗にいう?「ルー大柴トーク」とでも言うのか、絶対に伝えたいことは「英単語」で表現し、その他は日本語で話すようにした。すると、相手の相槌や回答も今までのものとは違うモノへと変化していった。また、言葉だけでは俺のパーソナリティを伝えきれない!と思い、そもそもスーツを着ないタイプだが、自分なりのコーディネートでミーティングに挑むことで、相手が「こいつの話を聞こう!」というムードになっていった。この時に、ファッションは言語を超えると実感した経験がある。 
俺は元来の性格として「YES or NO」をはっきり言うタイプだが、よく海外の方に「あなたは何人?」と聞かれることがあった。「YES or NO」をはっきり言うからかな?と思っていたが、それ以上に「あなたは、感情がそのまま顔に出るから。」と言われることがあった。どうやら、日本人は感情を表に出さないというのが海外からのリアルな感想なのだろうと思った。
その業務をしなくなった今でも「あいつは元気なのか?」と言われているらしい、、、。それくらいにインパクトがあったのかもしれない。


 結局は、自分が取扱う事業で達成したいことが明確であり、相手の希望をも読み取ることができれば、言語よりも体当たりで感情を共有することで“前に進む”ことができる!俺はそう思っている。


画像提供元:Pexels

一歩進むために二歩下がる?!


これが、“アウターコロナ”なのか?
俺にはわからない。。。
2020~2022年に猛威を振るった新型コロナウィル(SARSr-CoV)、このウィルスにより急性呼吸器疾患(COVID-19)の驚異。世界五大陸にまで感染が広まり、もちろん自分の人生で初めての経験であり、大きなターニングポイントになったことは言うまでもない。


日本国内においても一時学校の休校、イベント自粛、不要不急の外出を控えるように政府が呼び掛けていた・・・。このような状況下だった時でも都内では、電車はすし詰め、繁華街には多くの人が集まっていた。そして時は経ち、海外からの入国緩和が行われ、感染症分類が第二類から第五類へと緩和されると、さらに街に人で溢れ、嘗ての活気が戻ってきたように感じることもある。


しかし、まずは深呼吸して浮かぶのは“人命第一”であり、陰を潜めていたインフルエンザが今年、季節はずれの感染爆発も起きようともしている昨今を見ると、元の生活に戻った気分にはなれないのが正直なところだ。一方、経済を見ると日本の株価が一時バブル期を超えたり、うん十年振りの継続的な円安やインフレ、と不安定な状況は続く。海外への輸出にウエイトを置く企業にとっては追い風ではあるが、多くの中小・零細企業を中心に各所からの悲鳴が聞こえている。このような環境に囲まれていると「平常心を持ってこの不安に対処することが大切」であると実感する。“人命”と“経済”のバランスを考えながら、企業や個人ができる範囲内のアクションをとることが求められていると思う。繊維・ファッション業界は、シーズン性のある商材が故に、時期を逃すと即座にビジネスに大きな打撃を与える産業であり、ただ沈黙し、ウィルスの収束や経済の復活をただただ待っている訳にはいかない人々が多くいるからだ。


 そんな中で、“自分さえ良ければ・・・。” のような方々も多く見受けられる。もちろん自分を守るのは自分しかいない。しかし、このようなタイプの人は自分のアクションも他力本願で、問題が起きると自分の責任のみを回避する傾向にあるように思う。パラレルワールドではないが、自分の一瞬は無限に選択があり、何を選択したかによって次の一瞬が違う世界になっていく。


 昨今の“サステナブルな社会”というビジネス上でも、大きな課題を考える際にも、感じていたが
「自分だけ」、「今だけ」、「金だけ」
良ければいい!という考えを捨てない限りは、“サステナブルな社会”にはならないと思うし、それ以上に日本の経済回復には向かわない気がしている。なので、俺はこのコロナ禍で“人の断捨離”をだいぶ行った。有事において自分しか考えていない人とはコミュニティを形成するのは困難だと感じたからだ。本来、サステナブルな考えは人の心が豊かな時にしか実現できないはず。表面上のサステナブルは、経済面だけを見た“一過性のトレンド作り”でしかない。


 現状を打破し、一歩進むために二歩前の自分達の世界を見直し、過去の賢人に学び、自分の周囲との共存を考えると見えてくるものがあるのではないか?と思える。もしも、世の中の「貨幣」というものの価値が変わるとしたらどうするのか?それでも今の価値にすがるのか?新たな考えを持って別の世界観を形成するのか?
自分、家族、そして所属するコミュニティが自分の考えを確かにもって、周囲に振り回されることなく、そして周囲のことも考える良い機会なのかもしれない。


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