cky355のブログ

日々、感じること・思うことを徒然に・・・。

一歩進むために二歩下がる?!


これが、“アウターコロナ”なのか?
俺にはわからない。。。
2020~2022年に猛威を振るった新型コロナウィル(SARSr-CoV)、このウィルスにより急性呼吸器疾患(COVID-19)の驚異。世界五大陸にまで感染が広まり、もちろん自分の人生で初めての経験であり、大きなターニングポイントになったことは言うまでもない。


日本国内においても一時学校の休校、イベント自粛、不要不急の外出を控えるように政府が呼び掛けていた・・・。このような状況下だった時でも都内では、電車はすし詰め、繁華街には多くの人が集まっていた。そして時は経ち、海外からの入国緩和が行われ、感染症分類が第二類から第五類へと緩和されると、さらに街に人で溢れ、嘗ての活気が戻ってきたように感じることもある。


しかし、まずは深呼吸して浮かぶのは“人命第一”であり、陰を潜めていたインフルエンザが今年、季節はずれの感染爆発も起きようともしている昨今を見ると、元の生活に戻った気分にはなれないのが正直なところだ。一方、経済を見ると日本の株価が一時バブル期を超えたり、うん十年振りの継続的な円安やインフレ、と不安定な状況は続く。海外への輸出にウエイトを置く企業にとっては追い風ではあるが、多くの中小・零細企業を中心に各所からの悲鳴が聞こえている。このような環境に囲まれていると「平常心を持ってこの不安に対処することが大切」であると実感する。“人命”と“経済”のバランスを考えながら、企業や個人ができる範囲内のアクションをとることが求められていると思う。繊維・ファッション業界は、シーズン性のある商材が故に、時期を逃すと即座にビジネスに大きな打撃を与える産業であり、ただ沈黙し、ウィルスの収束や経済の復活をただただ待っている訳にはいかない人々が多くいるからだ。


 そんな中で、“自分さえ良ければ・・・。” のような方々も多く見受けられる。もちろん自分を守るのは自分しかいない。しかし、このようなタイプの人は自分のアクションも他力本願で、問題が起きると自分の責任のみを回避する傾向にあるように思う。パラレルワールドではないが、自分の一瞬は無限に選択があり、何を選択したかによって次の一瞬が違う世界になっていく。


 昨今の“サステナブルな社会”というビジネス上でも、大きな課題を考える際にも、感じていたが
「自分だけ」、「今だけ」、「金だけ」
良ければいい!という考えを捨てない限りは、“サステナブルな社会”にはならないと思うし、それ以上に日本の経済回復には向かわない気がしている。なので、俺はこのコロナ禍で“人の断捨離”をだいぶ行った。有事において自分しか考えていない人とはコミュニティを形成するのは困難だと感じたからだ。本来、サステナブルな考えは人の心が豊かな時にしか実現できないはず。表面上のサステナブルは、経済面だけを見た“一過性のトレンド作り”でしかない。


 現状を打破し、一歩進むために二歩前の自分達の世界を見直し、過去の賢人に学び、自分の周囲との共存を考えると見えてくるものがあるのではないか?と思える。もしも、世の中の「貨幣」というものの価値が変わるとしたらどうするのか?それでも今の価値にすがるのか?新たな考えを持って別の世界観を形成するのか?
自分、家族、そして所属するコミュニティが自分の考えを確かにもって、周囲に振り回されることなく、そして周囲のことも考える良い機会なのかもしれない。


画像提供元:Pexels

新しい景色

 使い古された言葉「“変わらなきゃ”が“変わらなきゃ”」。私が仕事上で知る限り、バブル崩壊の90年代から聞いている言葉だ。ただ、この言葉を公言する人ほど私から見たら、変わってもいないし変ろうとしているようにも見えない。もっと言えば、こういう人々は、“自分はそのままで周囲が変わってくれれば・・・。”と願っているように思う。
 これでは、ただ時間が流れ、自分が流されていくだけだと私は思う。また、有言実行がそんなに難しいのなら、“人知れず変わる”道を選べば良いのでは?とも。
このことは、個々人のみならず企業・団体・事業も同じだ。本当に変わりたいと思うなら帰属している企業・団体・事業に身を任せるのではなく“自分が変わる!”という強い意志を持つことが大切だと思う。個々人が変わることで周囲にその変化は伝染するに違いない。良き変化が共鳴し、“だったら、自分も!”と、仲間は増えていくのだろう。点が線となり面へと拡張する。こうなれば、しめたものであり、変化が変化を呼び、当初に想定していたよりも大きな変化がもたらされるのではないだろうか?変化についていけない人は、知らずに自分との距離が出来ていく一方で、今まで話したこともない人とのコミュニケーションが生まれ、その対話から今まで知らなかった新しい情報を入手することにもつながり、最初に“変わる!”と決断した自分が自分の想像していた以上に変化していることもある。
私はもともと、あまり変化を好まないタイプだった。しかし、いろいろなことを知る中で、「これ、おかしくない?」と思うことが増え、自分がおかしいと思うことをそのまま、周囲に言ってしまうことが増えていった。すると周囲は、「それはどういうこと?」となり、「こうした方が良くないですか?」といった小さな疑問から、少しずつ自分も変わり、周囲を変えていると気づく時がある。そんなことを続けていると、ふと後ろを振り返った時に、「何か変わった?」と思うようになる。たいそうなことはしていない、人は慣性の中に生きることが多い、でも、今までの見方を少し変えるだけで疑問を抱くこともあるのではないだろうか?だとしたら、それは変化のチャンスなのかもしれない。


そこで、人には限界があるというが「限界とは何か?」
もちろん、時間や距離的な限界はある。
でも、自分で「限界」だと決めてしまわなければ、「限界」の境界線は無限だ。
自分で「はい、おしまい!」と決断した時が「限界」なのだと思う。


 そして現代社会は、自分を取り巻く環境(国内外の経済・社会・生活習慣)が目まぐるしく変化している。先人の知恵に基に、常に変化に対応していかないと時代という波に飲み込まれてしまい、顔無しの人間になってしまう。ゴールは決してないのだ。繊維・ファッション業界でも、嘗ての流行がリバイバルしていることが言われるが、当時をそのまま再現するのではなく、当時のエッセンスを基に現在の空気感を乗せていかないと単なるリユースに見えてしまう。そうならないためにも、変化をキャッチする触手は常に張っておく必要がある。ファッションのサイクルの早さを考えたら、まさに“待ったなし!”の状態だ。
 押しなべて、“変化は痛みを伴う”ものだ。しかし、その痛みと共に変化を実感した時に目の前に広がる景色は今までとは一変する。言い換えれば、その痛みを超えなければ見られない景色がある。この景色は爽快であり、自分の背筋が伸び、目線が一段階上がったような不思議な光景だ。一種の脱皮なのかもしれない。自分の意志とは別に、私は幾度かこの景色を見たことがある。(見せられたという方が正解なのかもしれない。)嘗て、故寺山修司氏が出版した“書を捨てよ、町へ出よう”ではないが、己のものにした良き習慣は身に纏ったまま、重苦しく意味なく慣性だけで着てきた衣服を一旦、脱ぎ捨てて身軽になった状態で自分の周囲の景色を見てみることも時には大切なことなのだと思う。


そんなことを考えると、変化を楽しむというのも、これまた人生なのだと思う。


画像提供元:Pexels